3児母の消化不良

他人の犠牲の上にのみ幸せは成り立つのだと思う

記憶を抹消したい一週間

到着した夜から持参した手帳に日記を書くことにした。


「ようやく到着⭐︎アメリカ楽しむぞぉ!」と1ミリも思ってないことを手帳にも気を遣って書いてしまう癖のある私は本当に日記に向いていない。


夜はホストファミリーが誰もいないらしく、謎の女の人とその友達と思われる人たちに車に乗せてもらいある場所に連れて行かれた。


同じ年頃の人たちが集まるような所に連れてってくれるのかと思いきや、着いた場所は私が浮くほど年齢層が高い人たちが集まっていたダンス会場だった。


送ってくれた若人は本当に送ってくれただけだった。そりゃそうだ。いくら海外といえど、若者が楽しめるような場所じゃないことは外国人の私でも分かる。


そこには前乗りしていたホストのおばあちゃんがいて、私は目の前に座った。


テーブルにはたくさんの料理が置かれていて、食べていいよと言われたけどもう見た目から食欲がわかない。


どこの国の料理なのか全く分からないそれは食べた感想も予想通りだった。でも、もっと食べなさい!と進められるのは全世界共通の年寄りカルチャーでうんざりした。


しばらく人様のつまらないダンスを眺めていた後、あなたも踊りなさいと誘われた。


日本でもこういう場所は避けて生きているのに、ましてや海外の老人ダンスパーティーで私がノリノリで踊るとでも思ったのだろうか。


外国に行ってみたとかいうテレビ番組だったら私だって空気読んで踊ったのだろうが、こんなよく分からない場所でいくら老人ばかりといったって恥はかきたくない。それにダンスなんて高校の時の体育祭で唯一メンバーから外されたほど下手くそでトラウマのあるジャンルだったのだから、もーしょうがないなぁと渋々前に出て行くノリの良さは設けていない。


私は全力で拒否した。手を引っ張られても拒否した。ノリが悪い日本人の娘だなどとドン引きさせたとしても、楽しめないことは何が何でもしたくない。私はまだ若すぎた。


そんなグッタリするパーティに付き合わされ、帰宅するとすぐに眠った。


朝目が覚めた。と言ってもジェットラグで多分昼くらいまで寝てたのではないだろうか。

お腹の減りも気付かないくらい緊張していたが、キッチンに行くと綺麗なお姉さんがいた。何か食べる?と聞かれてイエスと答えると、カウンターにあった食パンとフルーツを切って出してくれた。


今思うと日本の食事も早くこれがデフォになって欲しいほど手がかかっていない。味はさて置きとりあえずまともな食事にやっとありつけた。


その後続々と人が現れて、それぞれがご飯を食べ始めた。そして、その人たちが交わしているのは全く聞いたことのない言語。英語なんて一言も喋らない。


質問されても英語かどこの言葉か分からないような言語で話されても全く理解できなかった。辛い辛い辛い。


その日を境に私は自室に閉じこもった。朝が来ても起きず、何時間寝れるかチャレンジをすることにした。もう誰とも関わりたくなかったし、早く家に帰りたかった。


とはいっても、ホストファミリーがそれを許してくれるはずもなく私はあのダンスパーティーの時に出会ったホストのおばあちゃんによって外に連れ出された。


どこに行くのかも分からなかったけどとりあえず着いて行った。


地下鉄に乗ったり、お友達の家に行ったり、ショッピングしたり、ゴールデンゲートブリッジにも連れて行ってもらった。この日はザ・アメリカを感じられてとても楽しかった。


おばあちゃんはとても優しくてこの人とだったら一緒にいられた。


翌日、何時間寝れるかチャレンジはもう限界に達して朝から起きて手帳に書き物をしていた。その時、ノックの音がするかと思ったら入ってきたのは日本人の女の子。


帰りたすぎて遂に死んでしまったのかと思ったけど確かに日本語を話す日本人で、「今日は一緒に出かけよう」と言ってくれた。


日本語ができる状況になって私は死ぬほど嬉しくて泣いた。私と同い年だったその子は、語学留学でアメリカに来ていて半年、同じ家で暮らしているらしい。


そんなこと全く知らなかったので、ポカンとしたがとりあえず安心した。


私はその子と一緒にお友達の家に行った。そのお友達はもう一年もアメリカにいて、英語はペラペラ。2人は久しぶりに会ったようで私の知らない話題で終始盛り上がっていた。


…またこれだ。


日本でもこんな状況になることはかなり多い。友達の友達っていうのが私は本当に苦手だ。ここで輪に入っていける人を本当に尊敬する。


こうなると私はまた自分に鍵をかける。何も話せなくなる。コミュニケーションを一切絶ってしまう。


そうした孤独な時間が2時間くらいあって、すっかり日も暮れるとカウントダウンイベントがあるらしく私たちは開催場所へ行くことにした。


もう年末だった。あまりにもしんどい日が続いて今日が何日なのかも忘れていた。こんなことならば、忘年会で変態ジジイの相手をしてるほうがマシだったかもしれない。


着いた場所は大きな広場。もう0時前とあってかなり多くの人で賑わっていた。日付が変わった瞬間たくさんの花火が打ち上げられ、皆んなが喜んでいた。この状況はなんだか賑やかで私もアメリカで年を越すという経験をしたことが嬉しく思えた



…のも束の間だった。


ひと通り賑わって、みんなが広場から退散しようとした時事は起きた。


なにか周りがざわざわし始めたかと思うといきなり目の前がぐるぐると回り始め、すごい力で引っ張られ出した。それでも私は必死に踏ん張ってその長過ぎる数秒間を必死に耐えた。


そのぐるぐるが無くなったと思ったら、ジーパンの上から股間を撫でくりまわされさっきの風景に戻った。


何が起こったのか一瞬分からなかったが、大丈夫?!と声かけてくれた連れによってようやく把握した。


強く引っ張られていたのは私のバッグで、中から買ったばかりのそしてアメリカの数少ない思い出が詰まったデジカメが無くなっていた。


財布じゃなくてよかった。でもこれで私はアメリカに行ったという事実が全てなくなってしまったかのように思えて悲しかった。


なんで私がこんな目に…でもいつもそうだ。日本だろうが外国だろうが私はいつもこういう目に遭う。


でもこういう結果になるのは全部自分のせいなのだ。自分が全て招いた結果。


英語が話せないのも、コミュ障なのも、それがゆえにスリに遭ってしまうのも当然の結果。


こんな海外ホームステイを経験するのはきっと私くらいなもんだろう。このホームステイを語学留学の下見のつもりにしていた一週間前の私を今すぐ鈍器で殴り殺したい。


その後ショックな気分のまま帰宅し、私を連れ出してくれた女の子とメアド交換した。帰ったら連絡しようとお互い言っていたがあれから何もなく13年も経っていた。そんなもんだ。


私はこの話を誰にもしていない。家族には楽しかったとだけ話しただけで終わっている。これを黒歴史と言わずして何というのか。


でもひとつ言えることは、コミュ障だろうが異国の地だろうが英語さえ話せればもっと充実していただろう


そんな散々な一週間だったのに、日本に戻ってきたときはなんて小さい国なんだと絶望した。


年が明けた仕事始めの日、上司に「今年の忘年会は必ず参加だよ!」と言われた。


私はその年の夏に退職届を出した。













14年前の1週間ホームステイの忌々しい記憶が突然呼び起こされた

私は20歳の誕生日を迎える直前にアメリカへ一週間ホームステイの留学をした。

 

元々海外に憧れがあったので、高卒で入社した会社の給料をコツコツ貯めたお金で行くことにしたのはもう14年前の話。

 

時期は年末。1年で最も忙しいシーズンに決めたのは、毎年恒例となっている会社の泊りがけの忘年会にどうしても行きたくなかったといいうのが99.9%を占めた理由。

 

私はとっても楽しみだった。もちろん忘年会に行って酔っぱらった臭いオヤジに手を握られて部屋まで一緒に帰るという拷問を受けなくて済んだというのがとても良かったのだけど、それ以上に夢のアメリカに行けることが楽しみでしょうがなかった。

 

すでに留学斡旋会社からホームステイ先のファミリーの写真をもらっていたんだけど、それはもう海外ドラマに出てくるような幸せファミリーそのもので、毎日家事と育児を率先して手伝ってくれるであろうパパと、PMSとは一生縁がないであろうママとその間に挟まれて笑ういたずらするけど根は優しいといった可愛い2人の兄弟。

 

まさにこれがホストファミリーの鏡と過大評価してしまいそうな妄想が膨らむ場所に私はお世話になるのかと思うとそりゃ当然胸躍るわけです。

 

そう、この時まではほぼ思い描いていた通りになるはずだった。

 

当日は後に結婚して浮気されて離婚することになる未来が待ち受ける彼氏に空港まで送ってもらい搭乗。

 

方向音痴の田舎もんが成田国際空港に無事到着しただけで喜んだのもつかの間。いきなり留学斡旋会社の担当者から電話があり、「ホームステイ先が変更になりました!」と言われた。

 

え。もうあのパツ金ファミリーとは会えないってこと?そんなことってあるんだ…と思いつつこればっかりは仕方ないのでとりあえずアメリカサンフランシスコへの飛行機に搭乗。

 

好奇心だけで突き進んできた私は英語が全く喋れなかったので、喉が渇いてもCAさんに飲み物が欲しいと伝えることが出来ず飛行機内で脱水症状しかけたものの、我慢強いのが功を奏して遂にサンフランシスコに到着。

 

そして留学を考えてる人は、英語全然喋れないのに外国へ1人で行くもんじゃないってことを今すぐ伝えておきます。

 

その証拠に到着して待ち受けてたのは、CITIZENかNO CITIZENに分かれた通路。CITIZENの時計を付けているか否か?違う、分からん。シチズンってなんや。

 

こんな時職員に意味を聞けるといいけど、聞いたところで返ってきた言葉を理解できるブレーンも持ち合わせていない。おまけにアウェーな状況でコミュ障に拍車がかかっている今、人に特に異国の人に声掛けできる勇気なんてない。だって、すでに機内の中で心を疲弊させたばっかりなんだから。

 

これは勘に頼るしかなかった。どっちに並んでる人もみんな肌の色も喋ってる言葉も違うので、どうやって判断すればいいのか分からずその場に突っ立って多分体感15分くらいが経った。

 

どちらにしろ私は腹をくくってこの時限爆弾の赤か青のどっちかを選ばなければならなかったので、勇気を出してNO CITIZENの方へ進むことにした。私はシチズンの時計なんて持ってなかったし、いろんな意味でNOな人生ばかりを送ってきたから。そしたら爆発しなくて済んだ。後から知ったけどここでいうCITIZENは、アメリカ国民かそれ以外か?っていうローランド的な質問だったらしい。

 

一旦安心したらまた難関が立ちふさがる。そこで税関申告書かなんかを提出するんだけど、担当した人が運転免許センターの職員並みの無愛想なおばさんで、私が一部記入ミスしたことによってすぐに用紙を押し返された。また心折れた。しかもその後も何度も返却される。そんな押し問答をしばらくやっていてようやく「あなたはこれで合格よ」と言わんばかりにわずかな笑みをこぼしたおばさんが申告書を受け取ってくれた時は泣いた。その時周りにいた入国者が誰一人いなくなっていてまた泣いた。

 

やっとここから出られる。今なら世界中で一番「ターミナル」のトム・ハンクスに同情できた。私はもう疲れ切っていた。そして待ちに待った空港ロビーへと出たら、そこには留学斡旋会社のロゴみたいなカードを持った人が1人立っていた。

 

なぜかここからどうやってホストファミリー宅へ行ったのかマジで覚えていない。この待ち受けていた人がホストファミリーだったのか、現地の担当者だったのか完全に記憶が飛んでいる。それほどまでに安心したんだろう。

 

アメリカはとにかく広くて別世界だった。サンフランシスコ特有の坂だらけの住宅街も感動で、お金貯めて良かったなあと思った。でもそれはこの時だけ。

 

到着したのはある一軒家。インターフォンを鳴らすと日本にいるようないかにもなおばさんが出迎えてくれた。どっか知らん国の言葉で。

 

ここで一気に不安の谷底へ突き落とされた。「思ってたんと違う」とはまさにこのことで、母国語が英語じゃない人たちが今回のホストファミリーとなっていた。

 

家自体はめちゃくちゃデカくて、メイズランナーの世界に入り込んでしまったようだった。

 

そして通された私の部屋は独房よりちょっと狭いくらいのベッドと棚、上のほうに小窓がある部屋。部屋?いやハーフシングルのベッドが存在するだけの物置といったほうが腑に落ちる。

 

荷物を置くと家の中を案内されたけど、英語が全く分からないので説明されても「OK」と言うしかない。

 

もうすでに私のホームスティに描いていた希望は簡単に打ち砕かれていて、とにかく恐怖でしかなかった。例えるならば年に一回くらいしか行かない遠方の義実家を久しぶりに訪れ、仲良しな親戚が集まってくっちゃべってる側でぼっちになっている時の気分。そんなところに一週間滞在するのかと思うと、私の心には自然と南京錠が掛けられていった。

 

どこでもドアがあるなら恥を忍んですぐにでも日本へ帰りたかった。日本に帰れるならばもうどこでもいい。とにかく日本語で安心したかった。

 

そんな時1本の電話が鳴り響いた。おばさんが出るとどうやら私宛への電話だったらしい。出てみると留学斡旋会社の担当さんだった。泣いた。本当は見栄を張って泣いてはいないんだけどとりあえず救われた。

 

内容はなんてことない。「急にホストファミリーが変わってすみませんでした!今後はそちらの家庭で1週間過ごしてもらいます。最後の日はまたご連絡いたします」とかそんなことだったと思う。

 

ガチャリ…

 

ここから私の先行き不安なホームスティ生活は波乱万丈にスタートした。