3児母の消化不良

他人の犠牲の上にのみ幸せは成り立つのだと思う

14年前の1週間ホームステイの忌々しい記憶が突然呼び起こされた

私は20歳の誕生日を迎える直前にアメリカへ一週間ホームステイの留学をした。

 

元々海外に憧れがあったので、高卒で入社した会社の給料をコツコツ貯めたお金で行くことにしたのはもう14年前の話。

 

時期は年末。1年で最も忙しいシーズンに決めたのは、毎年恒例となっている会社の泊りがけの忘年会にどうしても行きたくなかったといいうのが99.9%を占めた理由。

 

私はとっても楽しみだった。もちろん忘年会に行って酔っぱらった臭いオヤジに手を握られて部屋まで一緒に帰るという拷問を受けなくて済んだというのがとても良かったのだけど、それ以上に夢のアメリカに行けることが楽しみでしょうがなかった。

 

すでに留学斡旋会社からホームステイ先のファミリーの写真をもらっていたんだけど、それはもう海外ドラマに出てくるような幸せファミリーそのもので、毎日家事と育児を率先して手伝ってくれるであろうパパと、PMSとは一生縁がないであろうママとその間に挟まれて笑ういたずらするけど根は優しいといった可愛い2人の兄弟。

 

まさにこれがホストファミリーの鏡と過大評価してしまいそうな妄想が膨らむ場所に私はお世話になるのかと思うとそりゃ当然胸躍るわけです。

 

そう、この時まではほぼ思い描いていた通りになるはずだった。

 

当日は後に結婚して浮気されて離婚することになる未来が待ち受ける彼氏に空港まで送ってもらい搭乗。

 

方向音痴の田舎もんが成田国際空港に無事到着しただけで喜んだのもつかの間。いきなり留学斡旋会社の担当者から電話があり、「ホームステイ先が変更になりました!」と言われた。

 

え。もうあのパツ金ファミリーとは会えないってこと?そんなことってあるんだ…と思いつつこればっかりは仕方ないのでとりあえずアメリカサンフランシスコへの飛行機に搭乗。

 

好奇心だけで突き進んできた私は英語が全く喋れなかったので、喉が渇いてもCAさんに飲み物が欲しいと伝えることが出来ず飛行機内で脱水症状しかけたものの、我慢強いのが功を奏して遂にサンフランシスコに到着。

 

そして留学を考えてる人は、英語全然喋れないのに外国へ1人で行くもんじゃないってことを今すぐ伝えておきます。

 

その証拠に到着して待ち受けてたのは、CITIZENかNO CITIZENに分かれた通路。CITIZENの時計を付けているか否か?違う、分からん。シチズンってなんや。

 

こんな時職員に意味を聞けるといいけど、聞いたところで返ってきた言葉を理解できるブレーンも持ち合わせていない。おまけにアウェーな状況でコミュ障に拍車がかかっている今、人に特に異国の人に声掛けできる勇気なんてない。だって、すでに機内の中で心を疲弊させたばっかりなんだから。

 

これは勘に頼るしかなかった。どっちに並んでる人もみんな肌の色も喋ってる言葉も違うので、どうやって判断すればいいのか分からずその場に突っ立って多分体感15分くらいが経った。

 

どちらにしろ私は腹をくくってこの時限爆弾の赤か青のどっちかを選ばなければならなかったので、勇気を出してNO CITIZENの方へ進むことにした。私はシチズンの時計なんて持ってなかったし、いろんな意味でNOな人生ばかりを送ってきたから。そしたら爆発しなくて済んだ。後から知ったけどここでいうCITIZENは、アメリカ国民かそれ以外か?っていうローランド的な質問だったらしい。

 

一旦安心したらまた難関が立ちふさがる。そこで税関申告書かなんかを提出するんだけど、担当した人が運転免許センターの職員並みの無愛想なおばさんで、私が一部記入ミスしたことによってすぐに用紙を押し返された。また心折れた。しかもその後も何度も返却される。そんな押し問答をしばらくやっていてようやく「あなたはこれで合格よ」と言わんばかりにわずかな笑みをこぼしたおばさんが申告書を受け取ってくれた時は泣いた。その時周りにいた入国者が誰一人いなくなっていてまた泣いた。

 

やっとここから出られる。今なら世界中で一番「ターミナル」のトム・ハンクスに同情できた。私はもう疲れ切っていた。そして待ちに待った空港ロビーへと出たら、そこには留学斡旋会社のロゴみたいなカードを持った人が1人立っていた。

 

なぜかここからどうやってホストファミリー宅へ行ったのかマジで覚えていない。この待ち受けていた人がホストファミリーだったのか、現地の担当者だったのか完全に記憶が飛んでいる。それほどまでに安心したんだろう。

 

アメリカはとにかく広くて別世界だった。サンフランシスコ特有の坂だらけの住宅街も感動で、お金貯めて良かったなあと思った。でもそれはこの時だけ。

 

到着したのはある一軒家。インターフォンを鳴らすと日本にいるようないかにもなおばさんが出迎えてくれた。どっか知らん国の言葉で。

 

ここで一気に不安の谷底へ突き落とされた。「思ってたんと違う」とはまさにこのことで、母国語が英語じゃない人たちが今回のホストファミリーとなっていた。

 

家自体はめちゃくちゃデカくて、メイズランナーの世界に入り込んでしまったようだった。

 

そして通された私の部屋は独房よりちょっと狭いくらいのベッドと棚、上のほうに小窓がある部屋。部屋?いやハーフシングルのベッドが存在するだけの物置といったほうが腑に落ちる。

 

荷物を置くと家の中を案内されたけど、英語が全く分からないので説明されても「OK」と言うしかない。

 

もうすでに私のホームスティに描いていた希望は簡単に打ち砕かれていて、とにかく恐怖でしかなかった。例えるならば年に一回くらいしか行かない遠方の義実家を久しぶりに訪れ、仲良しな親戚が集まってくっちゃべってる側でぼっちになっている時の気分。そんなところに一週間滞在するのかと思うと、私の心には自然と南京錠が掛けられていった。

 

どこでもドアがあるなら恥を忍んですぐにでも日本へ帰りたかった。日本に帰れるならばもうどこでもいい。とにかく日本語で安心したかった。

 

そんな時1本の電話が鳴り響いた。おばさんが出るとどうやら私宛への電話だったらしい。出てみると留学斡旋会社の担当さんだった。泣いた。本当は見栄を張って泣いてはいないんだけどとりあえず救われた。

 

内容はなんてことない。「急にホストファミリーが変わってすみませんでした!今後はそちらの家庭で1週間過ごしてもらいます。最後の日はまたご連絡いたします」とかそんなことだったと思う。

 

ガチャリ…

 

ここから私の先行き不安なホームスティ生活は波乱万丈にスタートした。